フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 – 1890年7月29日)とは、言わずと知れたオランダのポスト印象派の画家。
1886年2月、パリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。
日本の浮世絵に大きな影響を受けたことも有名です。
ゴッホは『ひまわり』を、フランスのアルルにあるラマルティーヌ広場2丁目の右角にあったアトリエ『黄色い家』で描きました
常に太陽へ向かって咲く『ひまわり』は芸術家の象徴とされてました。
黄色い家で、多くの芸術家と共に共同生活を夢見ていたゴッホは、たくさんの『ひまわり』で黄色い家を埋め尽くそうとしていたのかもしれません。
ゴッホは2枚の『ひまわり』を実際に見て描き、残り3枚の『ひまわり』は、自分の描いたものを模写しました。
1枚は第二次世界大戦で焼け、もう1枚はアメリカの個人が所有しているため今は見ることが出来ません。
現在見ることのできる『ひまわり』は5枚。
ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)、ノイエ・ピナコテーク(ミュンヘン)、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)、フィラデルフィア美術館(フィラデルフィア)で見ることが出来ます。
そして、なんと残りの1枚が日本で見れるのです!
それが東京新宿の『SOMPO美術館』。『ひまわり』を求めてSOMPO美術館へ!
SOMPO美術館のご利用案内
開館時間:10:00 – 18:00(入館は閉館30分前まで)
休館日:月曜日(詳しくはHP参照)
観覧料:
一般:1,500円
大学生:1,000円
(当日窓口料金は一般1,600円、大学生1,100円)
(小中高校生、障がい者手帳をお持ちの方は無料)
アクセス(電車をご利用の場合):
JR新宿駅西口から徒歩5分
東京メトロ新宿駅から徒歩5分
東京メトロ西新宿駅C13出口から徒歩6分
西武新宿線西武新宿駅から徒歩7分
大江戸線都庁前駅A1出口から徒歩7分
新宿駅西口より、さらに西に10分程度歩くと『SOMPO美術館』があります。
この日は雨でしたが、こんな感じの美術館です。
美術館の前に、すでに『ひまわり』が!
目的は『ひまわり』でしたが、ふと見ると『スイス プチ・パレ美術館展 -印象派からエコール・ド・パリへ-』というものをやっていました。
エドゥアール・マネ、クロード・モネ、ルノワール、エドガー・ドガが活躍した時代『印象派』。
ゴッホも影響を受けた『印象派』という言葉にひかれさっそく美術館へ!
『SOMPO美術館』でいただいたパンフレットをもとに『スイス プチ・パレ美術館展 -印象派からエコール・ド・パリへ-』を、まずはご紹介します!
スイス プチ・パレ美術館展 -印象派からエコール・ド・パリへ-
スイスのジュネーヴにあるプチ・パレ美術館は、19世紀後半から20世紀前半のフランス近代絵画を中心とする豊富な美術作品を収蔵しています。
プチ・パレ美術館は1998年から現在まで休館していますが、今回、日本では約30年ぶりとなるコレクション展を開催いたします。
世紀転換期のパリでは、多くの画家たちが実験的な表現方法を探究し、さまざまな美術運動が展開されました。
プチ・パレ美術館の特徴は、ルノワールやユトリロなどの著名な画家たちに加え、才能がありながらも、あまり世に知られていなかった画家たちの作品も数多く収蔵していることです。本展では、この多彩なコレクションから38名の画家による油彩画65点を展示し、印象派からエコール・ド・パリに至るフランス近代絵画の流れをご紹介します。
印象派
19世紀後半のパリ、伝統的な主題と表現方法を拒絶し、新たな絵画を探求する画家たちがいました。
1874年に彼らは権威のあるサロン(官展)に対応すべく、自分たちで展覧会を開催しました。
その際に受けた皮肉まじりの批評をもとに、この画家たちは印象派として知られるようになった。
印象派の画家たちは、野外の自然風景や都市の景観、日常生活の光景などを好んで主観に選びました。
そして、なるべく絵の具を混ぜ合わせずに、原色に近い色を画面上に並べる色彩分割の手法を、軽やかタッチとともに用いてきました。
それによって、光の輝きや明るさ、空気感を表現しようとしました。
新印象派
1884年、因習的なサロン(官展)に不満をかかえていた画家たちは、無審査で作品を発表できる場として最初のアンデパンダン展を開催しました。
彼らのなかには、後に新印象派の主要なメンバーとなるスーラやシャニック、クロスなどがいました。
新印象派の画家たちは、印象派の色彩分割を基に、色彩と光を扱う科学的理論を取り入れました。
そして光の表現を研究するなかで、細やかな点で画面全体を均一に覆う点描表現と、色彩の対比による視覚的効果を組み合わせました。
この分割主義と呼ばれる手法は、平面性を強調し、奥行きの表現を手放すことにもつながりました。
新印象派主義は、パリのアンデパンダン展、そしてベルギーのブリュッセルで設立された20人会展を主な活動拠点として、国際的に展開しました。
また、ファン・ゴッホやゴーギャン、ナビ派などの他の絵画動向と交わることで、新印象派の画家たちは科学的理論を厳密に応用するという制約を超えて、より大胆なタッチと色彩表現を研究していきました。
ナビ派とポン=ダヴァン派
ポン=ダヴァンは、フランス北西部のブルターニュ地方に位置する小さな村です。
ここに滞在したゴーギャンとその周りにいた若い画家たちをポン=ダヴァン派と呼びます。
彼らは伝統的な絵画表現からも同時代の印象主義からも距離をとり、輪郭線で色面を囲む平面的な表現方法を用いて、自信の想像力と描かれるものの外観を統合しようと試みました。
その影響を受けたパリの若手画家たちは、ナビ(ヘブライ語で「預言者」の意味)派を結成しました。
彼らは19世紀末の象微主義の流れに属し、現実をそのままに描くのではなく、装飾的な表現を追求しました。
また、神秘主義や宗教、文学に関連した内容を好み、日常生活の一場面を描く際にも、知的、精神的な内容を織り込むことが多くありました。
ナビ派の理論化として知られ、宗教に強い関心を抱いたドニにとって、重要な主題は妻と子供たちでした。
ドニはブルターニュ地方のペロス=ギレックに別荘をもち、その邸宅や近くの海岸で憩う家族の姿を描きました。
新印象派からフォーヴィスムまで
新印象派の画家たちは、厳格な分割主義の原理から次第に遠ざかり、細かい点描に代わる長めのタッチや自由な色彩表現を取り入れました。
この表現の幅の広がりから、のちのフォーヴィスムや表現主義に向かう動きが展開します。
1905年、パリで開催されたサロン・ドートンヌでは、一群の若い画家たちによる絵画がセンセーションを巻き起こしました。
大胆なタッチと鮮やかな色彩を特徴とする彼らの作品が「野獣(フォーヴ)」と批評されたことから、フォーヴィスムという呼称が生まれました。
フォーヴィスムの主要の画家たちのなかで、象徴主義の画家に学んだマティスやカモワンらは新印象派の分割主義に感化され、さらなる実験的表現を模索しました。
一方、パリ郊外の街シャトーで活動したドランとヴラマンクは、ファン・ゴッホやゴーギャンらの重々しい色彩と激しい筆遺いを受け継ぎました。
フォーヴィスムは数年間の活動の後に終わり、画家たちはそれぞれ独自の道を歩みました。
フォーヴィスムからキュビスムまで
フォーヴィスム最後の展覧会とされる1907年秋のサロン・ドートンヌでは、セザンヌの回顧展も併せて開催されました。
これがきっかけのひとつとなり、画家たちの関心は色彩から、空間と量感の表現へと移っていきまいした。
キュビスムのピカソらの画家たちは、複数の視点から対象物を捉え、そのイメージを組み合わせることで、現実を絵画上に再構築することを試みました。
分析的キュビスムの時期(1910年〜1912年)には、モチーフの形体は多くの面に分解され、色彩は黒や灰色、白などに限定されました。
そして次第にモチーフと周囲の空間との境目は暖味となり、やがて溶解していきました。
総合的キュビスムの時期(1912年〜1915年)には、モチーフの形体と色彩が復活し、壁紙や新聞の切り抜きを貼り付けて、絵画に現実の要素を導入する試みが行われました。
その後に現れた古典に立ち返ろうとする芸術的気運や、文学など他の芸術分野との関連を通して、キュビスムはさらに多様な展開を示すことになりました。
ポスト印象派とエコール・ド・パリ
19世紀後半から20世紀初めにかけてのパリでは、印象主義を始めとする前衛芸術が多様な展開を見せた一方で、それから距離をおいた画家たちもいました。
特に両大戦間の時期を中心に、パリで活動したフランス国内外出身の芸術家たちの中で、特定の芸術運動に属さず、明確な芸術上の主義や信条を立てない画家たちを総称してエコール・ド・パリと呼びます。
第一世界大戦後にまモンマルトが、戦後にはモンパルナスが若手芸術家の主な拠点になりました。
彼らの多くは、貧しい人々や労働者、庶民に共感し、その日常生活を描きました。
エコール・ド・パリの画家たちが主に活動した1920年代には、装飾芸術の重要性が注目されるとともに、古典絵画に立ち返ろうとする「秩序への回帰」と呼ばれる傾向がありました。
画家たちは、そのような同時代の芸術思潮から影響を受けつつ、複数の絵画様式を融合させるなどの試みを通して、それぞれ独自の絵画表現をしていきました。
上記が『スイス プチ・パレ美術館展 -印象派からエコール・ド・パリへ-』の説明で、下記がyoutubeです。
そしていざSOMPO美術館内へ
受付を済まし、エレベーターで5階へ。
5階、4階、3階と観覧順になっています。
5階から、上記の『印象派』『新印象派』『ナビ派とポン=ダヴァン派』『新印象派からフォーヴィスムまで』『フォーヴィスムからキュビスムまで』『ポスト印象派とエコール・ド・パリ』の順番で作品を見ていきます。
各エリアの説明を読み理解しながら絵画を見るとより一層楽しくなります。
音声ガイドも有料で借りれるので、それも良さそうです。
それぞれの作品を見ていくと、裸婦で有名なルノワールが!
やっぱり有名な絵画を見るとテンション上がります。
左:ピエール=オーギュスト・ルノワール《帽子の娘》
右:ピエール=オーギュスト・ルノワール《浴女》
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ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 発音例、1841年2月25日 – 1919年12月3日)は、フランスの印象派の画家。
後期から作風に変化が現れ始めたため、ポスト印象派の画家の一人として挙げられることもある。
ルノワールは、1841年、フランス中南部のリモージュで貧しい仕立屋の息子として生まれ、1844年(3歳)、一家でパリに移り住んだ。聖歌隊に入り、美声を評価されていた。
1854年(13歳)、磁器の絵付職人の見習いとなったが、1858年(17歳)、失業した。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけていた。
(Wikipediaより引用)
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ルノワールの絵画に見惚れていた私ですが、次の絵画に移動しようとすると
ルノワールの絵画の近くに。。。
でました。。
ついにでました!
フィンセント・ファン・ゴッホの『ひまわり』
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『ひまわり』(フランス語: Les Tournesols、オランダ語: Zonnebloemen、英語: Sunflowers)は、1888年8月から1890年1月にかけてフィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた、花瓶に活けられた向日葵をモチーフとする複数の絵画の名称である。
ファン・ゴッホにとっての向日葵は明るい南フランス(南仏)の太陽、ひいてはユートピアの象徴であったと言われている。 南仏のアルル滞在時に盛んに描いた向日葵を、精神が破綻して精神病院での療養が始まってからは描いていないこともその根拠とされる。
(Wikipediaより引用)
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これです。これを見に来たのです。
『スイス プチ・パレ美術館展 -印象派からエコール・ド・パリへ-』の何枚もの絵画に見惚れながら観覧していました。
そこに、ルノワールの絵画。
ルノワールの絵画にさらに見惚れてしまい、ゴッホのことを忘れかけていた私に突然のゴッホでした。。
思ったより大きい絵画です。
92.1 cm × 73 cm (36.3 in × 29 in)のようです。
やっぱすごいです。ものすごい。
この絵画を目当てに来ていた私は、他の作品よりも沢山の時間見てしまいました。
贅沢な時間を過ごす事が出来、フィンセント・ファン・ゴッホの『ひまわり』を求めてSOMPO美術館へ来た意味がここにありました!